X+おっくせんまん(GOM!) 「OXENMAN!~LAST LIVE~」 Xファンにより少し炎上気味?
X JAPAN(エックス ジャパン)は日本の代表的なロックバンド。1989年にX(エックス)としてメジャーデビュー。その後1992年にX JAPANへと改名する。1997年解散。通称としてXと呼ばれる。概要
1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。後に「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、ロック界のみならず日本の音楽業界、J-POPにおいても様々な意味で多大なる影響を与えたバンドである。そんな彼らの活躍はJanne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。
メンバー
Drums & Piano:YOSHIKI(ヨシキ、1965年11月20日 -) (リーダー) [1982-1997/09/22]
(ex.DYNAMITE⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)
Vocal:TOSHI(トシ、1965年10月10日 -)[1982-1997/04]
(ex.DYNAMITE(ギター)⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)
Guitar:HIDE(ヒデ、1964年12月13日 - 1998年5月2日) [1987-1997/09/22]
(ex.サーベルタイガー⇒エックス⇒X JAPAN)
Guitar:PATA(パタ、1965年11月4日 - ) [1987-1997/09/22]
(ex.ブラックローズ⇒ジュディ⇒エックス⇒X JAPAN)
Bass:TAIJI(タイジ、1966年7月12日 -) [1985, 1986-1992/01/07]
(ex.トラッシュ(ギター)⇒ディメンシア(Ray)⇒ブローラー⇒エックス⇒ファティマ⇒デッド・ワイヤー⇒エックス)
Bass:HEATH(ヒース、1968年1月22日 -)[1992-1997/09/22]
(ex.パラノイア⇒カオスモード⇒ビート・スィート(ボーカル)⇒スィート・デス⇒メディア・ユース⇒マジスティック・イザベル⇒X JAPAN)
以上は1987年以降のX、1992年からのX JAPANメンバーである。Xのアマチュア(インディーズ)時代にはメジャーデビューするメンバーに固まるまで度々メンバーチェンジが行われていたために、「元X」の経歴を持つミュージシャンは数多く存在する。
インディーズ時代の旧メンバー(一部)
TERRY(テリー)(YUJI(ユウジ))ギター [1982-1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の同級生。
TOMO(トモ)ギター [1984-1985]
ATSUSHI(アツシ)(TOKUO(トクオウ))ベース [1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の先輩。
EDDIE(エディー)ギター [1985]
HALLY(ハリー)ギター [1985]:現United。TAIJIが最初に加入した時に連れてきたギタリスト。
JUN(ジュン)(SHU(シュウ))ギター [1985,1986]
ZEN(ゼン)ギター [1985-1986]
HIKARU(ヒカル)ベース [1985-1986]
KERRY(ケリー)ギター [1986]
SATORU(サトル)ギター [1986]
ISAO(イサオ)ギター [1987]:バイク事故により脱退。後に臨時ギタリストであったPATAが正式加入。
大魔神五人組
大魔神五人組(だいまじんごにんぐみ)とはXだったころに、主にファンサービスとして行われていたXのパートチェンジバンドである。
メンバーは、
Vocal:HIDE
Guitar:YOSHIKI
Guitar:TAIJI
Bass:PATA
Drums:TOSHI
バンド名の由来
Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、アメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月HEATH加入発表と共にX JAPANへと改名する。
来歴
結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「DYNAMITE」(1978-1980)、後の「NOISE」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。
当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。
※ちなみに「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。
高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。
インディーズ時代
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。
この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、TAIJIが店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKIがドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHI、HIDEが客に向かって「食え〜!!」と叫び、高速ナンバー「オルガスム」を演奏。迷惑そうな店主と黙々と食事を続ける女性客をよそに僅か1分少々の間で新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、HIDEのX加入後初仕事でもある。番組最終回において過去の名場面を放送した際、Xが絡む場面については一切放送されなかった。
実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。
当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。後の名作「紅」さえも認められない時期があったという。ただ、こうした批判にはXに対する彼等のやっかみがあったともされる。
結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい)。
それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。
こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。
CBSソニーとの契約
メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。
実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「〜3rd.」はマネジメントまで引き受け、まさに「プロジェクトX」状態となっていった。
メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的な記録であった。
その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まっていった。
1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
しかしその間、YOSHIKIとTAIJIには次第に埋まらない溝ができていた。
1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。ファンには知らされずにいたが、「TAIJIに何かがある」事を感じざるを得ないライブであった。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。軋轢対象や解雇を決定したのはYOSHIKIのようだが、TAIJI本人も認めたくない事実のようだ。
ソニーとの契約解除、世界進出
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。
これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。
契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。
海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。
長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。
これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。
本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。
さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。
このようなアルバムがなかなか出ないバンドの状況とは別の所で、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。
DAHLIA TOUR〜「DAHLIA」リリース、解散
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1〜2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止という、悪夢としか言いようが無いものになってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。
そして長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリースされた。しかしアルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなってしまった。この頃からTOSHIはXに息苦しさを感じるようになったと発言している。
1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE〜最後の夜〜」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。 ウイキペディアより抜粋
1982年、千葉県館山市で当時高校生だったYOSHIKIとTOSHIを中心に結成。後に「ヴィジュアル系」といわれるロックの先駆者的存在とされ、ロック界のみならず日本の音楽業界、J-POPにおいても様々な意味で多大なる影響を与えたバンドである。そんな彼らの活躍はJanne Da Arc、Dir en grey、ナイトメアなどに影響を与えている。
メンバー
Drums & Piano:YOSHIKI(ヨシキ、1965年11月20日 -) (リーダー) [1982-1997/09/22]
(ex.DYNAMITE⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)
Vocal:TOSHI(トシ、1965年10月10日 -)[1982-1997/04]
(ex.DYNAMITE(ギター)⇒ノイズ⇒エックス⇒X JAPAN)
Guitar:HIDE(ヒデ、1964年12月13日 - 1998年5月2日) [1987-1997/09/22]
(ex.サーベルタイガー⇒エックス⇒X JAPAN)
Guitar:PATA(パタ、1965年11月4日 - ) [1987-1997/09/22]
(ex.ブラックローズ⇒ジュディ⇒エックス⇒X JAPAN)
Bass:TAIJI(タイジ、1966年7月12日 -) [1985, 1986-1992/01/07]
(ex.トラッシュ(ギター)⇒ディメンシア(Ray)⇒ブローラー⇒エックス⇒ファティマ⇒デッド・ワイヤー⇒エックス)
Bass:HEATH(ヒース、1968年1月22日 -)[1992-1997/09/22]
(ex.パラノイア⇒カオスモード⇒ビート・スィート(ボーカル)⇒スィート・デス⇒メディア・ユース⇒マジスティック・イザベル⇒X JAPAN)
以上は1987年以降のX、1992年からのX JAPANメンバーである。Xのアマチュア(インディーズ)時代にはメジャーデビューするメンバーに固まるまで度々メンバーチェンジが行われていたために、「元X」の経歴を持つミュージシャンは数多く存在する。
インディーズ時代の旧メンバー(一部)
TERRY(テリー)(YUJI(ユウジ))ギター [1982-1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の同級生。
TOMO(トモ)ギター [1984-1985]
ATSUSHI(アツシ)(TOKUO(トクオウ))ベース [1985]:YOSHIKIとTOSHIの高校の先輩。
EDDIE(エディー)ギター [1985]
HALLY(ハリー)ギター [1985]:現United。TAIJIが最初に加入した時に連れてきたギタリスト。
JUN(ジュン)(SHU(シュウ))ギター [1985,1986]
ZEN(ゼン)ギター [1985-1986]
HIKARU(ヒカル)ベース [1985-1986]
KERRY(ケリー)ギター [1986]
SATORU(サトル)ギター [1986]
ISAO(イサオ)ギター [1987]:バイク事故により脱退。後に臨時ギタリストであったPATAが正式加入。
大魔神五人組
大魔神五人組(だいまじんごにんぐみ)とはXだったころに、主にファンサービスとして行われていたXのパートチェンジバンドである。
メンバーは、
Vocal:HIDE
Guitar:YOSHIKI
Guitar:TAIJI
Bass:PATA
Drums:TOSHI
バンド名の由来
Xというバンド名は、Xという字が本来持っている「無限の可能性」という意味がこめられている。結成当初は、「正式なバンド名が決まるまでの仮の名前」であって、「1文字だとコンテストのパンフレットで目立つから」という、軽い気持ちであった。 その後、アメリカに同名のバンドが存在することが分かり、1992年8月HEATH加入発表と共にX JAPANへと改名する。
来歴
結成から東京進出まで
幼稚園の頃からの幼馴染だったYOSHIKIとTOSHIは、小学校高学年でアメリカのロックバンド「KISS」の話をするような少年であった。小学校6年生の時に「一緒にバンドを組もう」と約束をした、とされる。中学生の時に「DYNAMITE」(1978-1980)、後の「NOISE」)(1980夏-1982)を結成。中学校の予餞会が初ライブだった。通っていた中学校が生徒増加で分割してしまい、ヴォーカルが別の中学に編入されてしまった為、当初ギターだったTOSHIがヴォーカルになった。地元では進学校として有名な安房高校に進学した2人は、その後もバンドを続けていたが、進学問題で他のメンバーが脱退。他校のメンバーを加えて1982年に始めたのがXだった。
当時のXは、コンテスト荒らしとして地元では有名なバンドで、TOSHIはバレーボール部と掛け持ちしていた為に、坊主頭で出場していた。
幼少の頃からピアノを習っていたYOSHIKIは、高校生当時「勉強もできてピアノも弾けるが、不良」という、学校にとっては厄介な存在だった。当時の様子をYOSHIKIは「バリカンを持った先生に館山市内を追い掛けられた」と、テレビ朝日「徹子の部屋」出演時に回想している。金髪リーゼントなのに期末試験ではトップクラスの成績、学校行事ではピアノを演奏するなど、当時から異彩を放っていた。
※ちなみに「笑っていいとも」などのトーク番組出演時に、YOSHIKIは他にも「ピアノの先生から『転ぶときは手をつかずに顔から転べ』と言われていた」などのエピソードも披露している。また上記「徹子の部屋」番組中、当時のX最高速曲は「Stab Me In The Back」だったにもかかわらず、過激過ぎると判断したのか、Xの1番速い曲として「ROSE OF PAIN」のツーバス連打部分を紹介している。
高校卒業後の進路として武蔵野音楽大学へ推薦入学するはずだったYOSHIKIは、クラシックに対して行き詰まりを感じ、入試1週間前の1984年1月に突如入試を断念してしまう。YOSHIKIは、ロックバンドとして成功する道を選び上京。TOSHIも、バンド活動の為に都内の調律の専門学校へ進学。こうして2人は活動拠点を東京に移した。
インディーズ時代
上京後の2人は、何のツテもない状態でメンバーやライブハウスを探し、1年後の1985年にはバンドとしての体裁を何とか整えられるようになる。6月、初のシングル「I'LL KILL YOU」をDADA RECORDSからリリース。YOSHIKIの母親が300万円出資し、有限会社として自身のレーベル「エクスタシーレコード」を設立。1986年4月に「オルガスム」をリリースする。この頃になるとファンもある程度定着したが、メンバーが常に流動的だった。販売が好調だった「オルガスム」を再プレスできなかったのは、この為である。
この頃のXは、日本テレビ「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」の「ヘビメタコーナー」に出演していた。「早朝シリーズ(就寝中の芸能人の部屋に侵入し、バズーカなどの爆音で起こす名物コーナー)」の一つである「早朝ヘビメタ」や、ステージ衣装のままで競技を行う「ヘビメタ運動会」などで話題となる。当時の放送では、YOSHIKIとTOSHIはそれぞれゲイリー・ヨシキ、オジー・アキラと名乗っていた。また、同番組の企画で「やしろ食堂ライブ」を行い、TAIJIが店の前の一般道で炎を吹き、狭い店内でYOSHIKIがドラムを叩き、HIDEがギターを振り回し、TOSHI、HIDEが客に向かって「食え〜!!」と叫び、高速ナンバー「オルガスム」を演奏。迷惑そうな店主と黙々と食事を続ける女性客をよそに僅か1分少々の間で新装開店の店内を破壊し尽くした。ちなみに、HIDEのX加入後初仕事でもある。番組最終回において過去の名場面を放送した際、Xが絡む場面については一切放送されなかった。
実際のライブにおいてもYOSHIKIやメンバーが暴れて火を吹いたりライブハウスを壊すなどの暴走は当たり前。ライブ中の毎回、ガソリン注いでシンバル燃やす、ライブ後の打ち上げでも喧嘩が絶えず、数々のライブハウスや居酒屋から出入禁止となった。当時、ロックミュージシャンが居酒屋へ入る時、YOSHIKIがいないかどうか店員にチェックされた程である。その特異な行動から、HIDE率いるサーベルタイガー、TAIJI率いるディメンシアと共に「関東三大粗大ゴミバンド」とバッシング(嘲笑い)の対象になった。
当時の音楽業界、特にロックのジャンルにおいて「テレビ出演」はタブー視されており、硬派なイメージを保つ事で彼等の世界観を保とうとする風潮があった。しかし、それを嘲笑うかの如くテレビ番組やライブでやりたい放題のXは、業界関係者や他のバンドから「ヘビメタをお笑いネタにされた」として厄介者のレッテルを貼られた。後の名作「紅」さえも認められない時期があったという。ただ、こうした批判にはXに対する彼等のやっかみがあったともされる。
結局、これらのテレビ出演がターニングポイントとなり、Xの知名度は一気に全国へと広がる事となる。また、この頃のXは、酒の席で「他のバンドがやらない面白い事をやろう」と考えた末、当時デモテープの配布すら滅多に無かった時代にプロモビデオを客に配布した。この時、他にも配布するものとして、冷蔵庫、電子レンジ、トラックなど本気とも冗談とも取れるアイデアが出たという。自身のプロモーションを積極的に行う点では、他のバンドより抜きん出ていた(他のバンドからは金持ちバンドとしてみられていたらしい)。
それと前後して、メンバーも固定化された。一時期Xに加入していたTAIJIが1986年の年末に再び加入。ビクターから発売されたオムニバスアルバムのレコーディングでPATAがヘルプで参加。その後、1987年初めには、サーベルタイガーを解散させ美容師になる決心をしたHIDEをYOSHIKIが説得し、Xに加入させた。いつの間にかPATAも正式にメンバーとなり、メジャーデビュー時のラインナップが揃った。
こうして最高のメンバーが揃ったXは精力的に活動を続け、1988年4月、遂にアルバム「VANISHING VISION」をリリース、発売1週間で初回プレス1万枚を完売する。これは、当時としては驚異的な事であった。この時、既に数社とのメジャーレーベルとの契約交渉を進めており、この年の夏に当時のCBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)とメジャー契約を果たす。
CBSソニーとの契約
メジャー進出時、Xとの契約を巡ってレコード会社間の争奪戦となった。「VANISHING VISION」は、メジャーから発売される可能性もあったが、YOSHIKIの「インディーズでまだ何も残していない」との判断で、エクスタシーからのリリースとなった。結局、Xが契約したのは、1番条件が悪かったとされるCBSソニーだった。Xがソニーと契約した理由は、他社のディレクター達が「BMWを買ってやる」や「黒髪にしたら売れる」といったような、ナメた態度をとっていたからだとされている。こうしたメジャーレーベルの人間の横柄な態度にメンバーはその都度キレまくっていたので、交渉は冷静に対処できるYOSHIKIが担当したという。
実は、契約したソニー側も会社としては積極的にXを獲得する動きは見せなかった。ただ、当時「サウンドディベロップメント」(スカウト・育成部門、通称SD)部門所属だった津田直士が紆余曲折を経て「STAFF ROOM 3rd.」という新規プロジェクトチーム配属となった事から、津田自らがディレクターとなりXと会社を説得。結局「〜3rd.」はマネジメントまで引き受け、まさに「プロジェクトX」状態となっていった。
メジャーデビュー、東京ドーム3days
1989年4月21日、CBSソニーからアルバム「BLUE BLOOD」でメジャーデビュー。オリコン初登場6位を記録する。また、この年だけで60万枚のセールスを記録する。当時はまだ、音楽業界でミリオンヒットが珍しい時代であり、さらにトップレベルのロックバンドですら10万枚の売上で大ヒットだったこの時代、Xのセールス記録は正に驚異的な記録であった。
その後、同年9月に『紅』をシングルカット。テレビ朝日「ミュージックステーション」などをはじめとする音楽番組出演などの積極的なメディア露出で、ヴィジュアル系バンドを見た事の無かった多くの人達に強烈なインパクトを与え、また楽曲の良さでも世間の注目を浴びる。この時もXのメディア露出過多について音楽業界から賛否両論を浴びせられたが、そんな事も吹き飛ばすかの如く、世間の支持を集め瞬く間にトップバンドへと登り詰めた。
破竹の勢いでメジャーシーンを突き進むXであったが、YOSHIKIの過激すぎるドラムプレイがアクシデントを引き起こした。同年11月23日の渋谷公会堂でのライブ中にYOSHIKIが倒れ、以降のライブは延期されたのである。この時から、YOSHIKIは首や腕に「爆弾」を抱えながらバンドを続ける事となる。しかしYOSHIKIが不在でも、Xは日本有線大賞新人賞・日本ゴールドディスク大賞など数々の賞を総ナメにして、X現象は全国へと広まっていった。
1990年2月、初の日本武道館ライブでツアーを再開。5月の大阪城ホールライブをもって、次のアルバムのレコーディングの為に渡米、表舞台から姿を消した。しかし本人達が不在の間にも、前代未聞のFILM GIG(フィルムコンサート)を行い成功させるなど、Xの存在は一種の社会現象となった。
アメリカ・ロサンゼルスでの長期レコーディングでは、またYOSHIKIが倒れてしまう。Xの最高速曲である「STAB ME IN THE BACK」のレコーディング後に頚椎の異常を訴え、頸椎椎間板ヘルニアと疲労で倒れてしまう。以降のレコーディングスケジュールは大幅に延期。レコード会社からは1991年7月のリリースをリミットとされた為、他の高速ナンバーや「ART OF LIFE」などのレコーディングを断念し、同年6月帰国。翌7月1日、アルバム「Jealousy」をリリース。オリコンチャート1位を記録する。8月23日、初の東京ドーム公演を果たし、10月29日には日本武道館で「エクスタシーサミット'91」を開催。同時期、新宿の小田急ミロードに「X SHOP JEALOUSIX」を期間限定で出店、日清食品から「カップヌードルX味」が発売されるなど、この頃のXはメディア露出なども合わせて絶頂期を迎えていた。12月8日にはNHKホールで、「X with Orcestra」を開催。さらに紅白歌合戦出場など、Xは日本を代表するバンドとなっていた。
しかしその間、YOSHIKIとTAIJIには次第に埋まらない溝ができていた。
1992年1月5、6、7日には日本人アーティストとして初となる、東京ドーム3DAYS公演「破滅に向かって」を敢行し、延べ12万人を動員することとなる。しかし、このライブでTAIJIが脱退。ファンには知らされずにいたが、「TAIJIに何かがある」事を感じざるを得ないライブであった。その後、1月31日の「ミュージックステーション」番組内のビデオメッセージにより、TOSHIの口からTAIJIの脱退が正式に発表された。TAIJI脱退の理由について、当初「音楽性とファッション性の違いから」と説明されていたが、その後のTAIJIの著書において「YOSHIKIに直接脱退を迫られた」という内容を告白している。「ギャラのアップ要求などバンドの嫌われ役に徹していたことに、YOSHIKIが疲れ果てたのではないか」や、また「一部のスタッフがYOSHIKIに働きかけたのではないか」など解雇理由についてTAIJIが著書で述べている。軋轢対象や解雇を決定したのはYOSHIKIのようだが、TAIJI本人も認めたくない事実のようだ。
ソニーとの契約解除、世界進出
同年3月、ソニーミュージックエンタテインメントから「YOSHIKIの我が侭にはこれ以上つき合えない」といった理由で、メジャー契約の更新を拒否される。この時点でXは所属レコード会社、所属事務所(マネジメントもソニーが丸抱えだった為)も無くなってしまう。
これは1991年リリースされたアルバム「Jealousy」のレコーディング時におけるYOSHIKIの頚椎トラブルでレコーディング期間が大幅に伸び費用がかさんだことや、世界進出に対する費用対効果の面や方向性の違いが原因とされる。Xの人気を考慮しても、ソニーミュージックの我慢は限界に達していた。
契約が切れてしまったXは、新しいレーベルとの契約と同時に、新たなベーシストをオーディションをしながら探していった。そして1992年夏、世界進出を果たすべくアメリカのタイム・ワーナー(当時)と契約。ニューヨークのロックフェラーセンターで記者会見を開いた。海外ではアトランティックレーベル、日本ではMMG(後のイーストウェストジャパン、現在はワーナーミュージック・ジャパンの1レーベル)から作品をリリースすることに決定。この時、同時に元マジェスティック・イザベルのHEATHの加入も発表されている。
海外進出を決めたのは良かったものの、アメリカ・ロサンゼルスに同名の「X」というバンドが存在したため、X JAPANに改名(ちなみに当初はX FROM JAPANと名乗っていたが、直ぐに変更した経緯がある)。
長期のレコーディング、バンド以外の活動
ワーナーとの契約が済んだX JAPANが最初に取り組んだのが、「Jealousy」に収録できなかった「ART OF LIFE」のレコーディングだった。デモテープは1990年夏には既に出来上がっていたが、TOSHIのヴォーカル録りが難航。1993年8月に、ようやくリリースされる。
これと平行して各メンバーのソロ活動が活発になるが、次第にX本体とのスケジュールの都合がつかなくなるなどした為に、Xのレコーディングスケジュールも管理していたYOSHIKIが、他のメンバーに不信感を募らせていった。だが相変わらず、Xのアルバムレコーディングは遅々として進まなかった。
本来、「Jealousy」に続くアルバムは世界進出アルバムとしてリリースされるはずであった。しかし、上記のバンド内の状況、TOSHIの英語発音の問題(「ART OF LIFE」では、長期のヴォーカル録りでも満足できなかったYOSHIKIが、パソコンを使って修正し続けたという経緯がある)、他のメンバーがあまり乗り気でなかった等々の理由により、YOSHIKIは「DAHLIA」での全世界リリース(「DAHLIA」英語盤の製作)を断念した。
さらに、その長期にわたるレコーディングはワーナーとの関係をも悪化させる。契約から4年ものアルバムレコーディングで経費がかかりすぎるとして、レコーディング費用捻出の為に仕上った楽曲を片っ端からシングルとしてリリース。それでも費用がかさんだ結果、YOSHIKIはフェラーリを売却し自腹でX JAPANのレコーディングを続行。さらに、YOSHIKIは持病の頚椎椎間板ヘルニアの為に数曲のハイスピードな楽曲のレコーディングを断念している。
このようなアルバムがなかなか出ないバンドの状況とは別の所で、日本国内ではFILM GIGが開かれたり、X JAPANブランドのコンドーム発売、UFOキャッチャー向け人形のキャラクター化、セガサターン用ゲーム発売、フォーミュラ・ニッポンへの参戦、ユネスコ主催の奈良東大寺ライブへの参加、年末の東京ドームライブの恒例化、紅白への連続出場等々、様々な活動があった。
DAHLIA TOUR〜「DAHLIA」リリース、解散
出口の見えない「DAHLIA」のレコーディングが終わらぬまま、1995年11月、アルバムが未発表にもかかわらず遂に全国ツアー「DAHLIA TOUR1995-1996」が開始されてしまう。YOSHIKIの体調を考慮して、基本的に1〜2週間に1個所で2daysという緩い日程だった。にもかかわらず翌1995年12月、仙台公演2daysが中止。翌1996年3月14日、名古屋公演2日目にYOSHIKIがライブ中に椎間板ヘルニアを再発して、そのまま以後のツアー日程は全て中止され、事実上ツアー終了。実に(福岡の延期を除く)18公演中、7公演が中止という、悪夢としか言いようが無いものになってしまった。特に福岡ドームに至っては、延期公演の振替も中止というありさまであった。
そして長期のレコーディングの末、1996年11月4日に最後のオリジナルアルバム『DAHLIA』がリリースされた。しかしアルバム発売以前に全10曲中6曲までがシングルリリースされる(さらに『DAHLIA』リリース後に「SCARS」もシングルカットされた)という、ベスト盤的アルバムとなってしまった。この頃からTOSHIはXに息苦しさを感じるようになったと発言している。
1997年4月、音楽性・方向性の違いを理由にTOSHIが脱退する。後任のヴォーカルを見つけられなかったバンドは、「2000年X JAPAN復活再結成、その為の一旦解散」を決定。9月22日読売新聞紙上に広告を掲出、解散を発表した。同日、記者会見を開き、X JAPANは解散した。その後、ファンに対する「けじめ」としてライブをしよう、とHIDEがYOSHIKIを説得。TOSHIも参加して、1997年12月31日に東京ドームで「THE LAST LIVE〜最後の夜〜」が行われ、終了後出演した紅白歌合戦のステージで幕引きとなった。 ウイキペディアより抜粋
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