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イチローの興奮する動画まとめ【イチロー史上初ランニングホームラン記念】

イチローのランニングホームラン
(なんか削除されまくってるので英語で検索して貼り替えました)


MVPインタビュー


イチロー、WBC優勝で興奮気味のインタビュー


イチローが絶賛!斎藤佑樹 Ichiro praised! "Youki Saitoh"


■シーズン最多安打記録を祝うセレモニー。英語でスピーチ。

■イチローレーザービーム
イチロー(ラテン文字表記:Ichiro Suzuki、本名:鈴木 一朗(すずき いちろう)、1973年10月22日 - )は、愛知県西春日井郡豊山町出身のメジャーリーガー。右投左打。ポジションは外野手(右翼手、2006年終盤より中堅手にコンバート[1])。

愛工大名電高校→オリックス・ブルーウェーブ(1992年 - 2000年)→シアトル・マリナーズ(2001年 - )

妻は元TBSアナウンサーの福島弓子。なお、名前は一朗だが長男ではなく次男である。ちなみに兄は一泰(ファッションデザイナー)。代理人はトニー・アタナシオ。

* なお、身長、体重については公式HPMLB.comを参考にした場合は(身長:5'9'' 体重:170lb)で175cm、77.1kgである。イチロー本人は、以前プロ野球ニュース(現すぽると!)に出演した際「僕は背も低いですし、176〜177cmぐらい」と陣内貴美子に自ら語っている(ただし、公称身長177cmの田口壮よりもあきらかに背は高い)。なお、日本プロ野球在籍最終年である2000年のプロフィールは身長180cm、体重75kgであった。ただし、MLB日本語公式ライセンシーサイト「MAJOR.JP」では、身長180cm、体重77kgとなっている。

タイトル・表彰・記録

日本プロ野球(パシフィック・リーグ)
MVP 3回(1994年−1996年)
首位打者 7回(1994年−2000年)
打点王 1回(1995年)
盗塁王 1回(1995年)
最多安打 5回(1994年−1998年)
最高出塁率 5回(1994年−1996年、1999年、2000年)
ベストナイン 7回(1994年−2000年)
ゴールデングラブ賞 7回(1994年−2000年)
月間MVP 10回(1994年6月・8月、1995年6月、1996年8月、1997年6月、1998年6月・7月、1999年5月・7月、2000年7月)
日本シリーズ優秀選手賞 1回(1996年)
正力松太郎賞 2回(1994年、1995年)
オールスター出場 7回(1994年−2000年)
シーズン210安打(1994年)
シーズン69試合連続出塁(1994年)
20試合以上連続安打4回(1994年、1999年、2000年)
5年連続全試合出場首位打者(1994年−1998年)
7年連続打率.340以上首位打者(1994年−2000年)
シーズン猛打賞26回(1996年)
シーズン216打席連続無三振(1997年)
通算1000本安打史上最速達成(1999年4月20日 757試合目)

メジャーリーグ(アメリカン・リーグ)
アメリカンリーグ新人王(2001年)
アメリカンリーグMVP 1回(2001年)
首位打者 2回(2001年、2004年)
盗塁王 1回(2001年)
シルバースラッガー賞 1回(2001年)
ゴールドグラブ賞 6回(2001年−2006年)
コミッショナー特別表彰(2005年)
ア・リーグ月間新人MVP 4回(2001年4,5,8,9月)
ア・リーグ月間MVP 1回(2004年8月)
ア・リーグ週間MVP 2回
オールスターMVP 1回(2007年)
オールスター出場 7回(2001年−2007年)
新人から3年連続オールスター最多得票
MLBオールスターゲーム史上初のランニングホームラン(2007年)
最多安打:3回(2001年、2004年、2006年)
ア・リーグ新人最高打率:.350(2001年)
シーズン最多安打試合:135(2001年)
シーズン新人最多安打:242(2001年)
シーズン新人最多打数:692(2001年)
連続4シーズンでの安打数最多:924(2001年−2004年)
連続5シーズンでの安打数最多:1130(2001年−2005年)
連続6シーズンでの安打数最多:1354(2001年−2006年)
デビュー以来6年連続200本安打(2001年−2006年)
シーズン最多安打:262(2004年)
シーズン5安打試合回数:4回(2004年)
シーズン月間50安打回数:3回(2004年)
シーズン最多単打:225(2004年)
シーズン最多内野安打:57(2004年)
ロードゲームでのシーズン最多安打:145(2004年)
5年間安打1100本以上2回(2001年−2005年、2002年−2006年)
連続盗塁成功:45(ア・リーグ記録)(2006-2007年)
1シーズンでの連続盗塁成功:39(ア・リーグ記録)(2006年)
ア・リーグ地区シリーズ最高打率:.600(2001年)
ア・リーグ地区シリーズ5試合最多安打タイ:12(2001年)

球団記録(シアトル・マリナーズ)
通算打率:.331
通算三塁打数:50
連続試合安打:25(2007年5月7日−2007年6月1日)
先頭打者本塁打数:22
シーズン打率:.372(2004年)
シーズン打数:704(2004年)歴代2位
シーズン打席:762(2004年)歴代5位
シーズン安打:262(2004年)歴代1位
シーズン単打:225(2004年)歴代1位
シーズン三塁打:12(2005年)
シーズンTOB(安打+四死球)315(2004年)歴代58位タイ
シーズン敬遠四球:27(2002年)歴代28位タイ
シーズン複数安打試合数:80(2004年)
新人最多得点:127(2001年)
新人最多塁打:316(2001年)
新人最多盗塁:56(2001年)
新人連続試合安打:23(2001年4月22日−2001年5月18日)
1試合刺殺数(中堅手):11(2007年6月27日)[2]
※通算成績は2006年終了時

少年時代
父親の鈴木宣之は、少年時代のイチローを厳しく鍛えた。後年、「私たちにとって楽しいことだった」と父親は述べたが、イチロー自身は「父は楽しかったとしても、『巨人の星』みたいなもので、自分にはつらかった」と述べている。

高校野球
愛工大名電高校時代は、左翼手として夏の甲子園に、また投手として春の甲子園に出場。それぞれ1回戦で相手に投げ負け敗退した(対戦した2チームはいずれも決勝まで進んでいる)松井秀喜のいた星稜高校とも練習試合で対戦がある。高校通算打率は5割5厘、高校通算本塁打は19本である。
高校時代、打者として評価されていた中、唯一投手として評価していた地元の中日ドラゴンズのスカウトも視察に訪れたが、投手としての評価が低かったため獲得を見送った。
高校当時の野球部中村監督に「言ってくれればいつでもセンター返し出来ます」と答え、監督が「新入生のただのアピ−ルだ」と思って当時の3年生投手相手にバッティングをさせたら約30球のうち7割は確実に芯でとらえ、ライナーでセンターに打ちまくった。中村監督は寮に帰るなり保子夫人に「今度入ってきたもやしみたいな奴は、火星人だった」という感想を漏らしている。そのため、新入生・鈴木一朗の愛称は火星人になった。
プロに指名されなかったら、日本大学野球部への入学が決まっていた。イチローも初めて首位打者を取った年(1994年)のインタビューで、「プロ入りしなかったら、今は、日本大学の3年生」と語っている。


日本プロ野球
1991年、外野手としてオリックス・ブルーウェーブにドラフト4位で入団。(尚このとき1位が現セントルイス・カージナルスの田口壮である。)
プロ1年目の1992年、フレッシュオールスターゲームに選ばれたイチローは、そのオールスターで代打逆転満塁ホームランを放ちMVPを獲得。賞金100万円を手にするが、全額を神戸市の養護施設に寄付している。2軍選手でこのことをしたのは日本プロ野球史上初である。
1992年はウエスタン・リーグで打率.366の高打率を残し首位打者に輝く。1992年7月11日の福岡ダイエーホークス戦(平和台野球場)でプロ初出場。1993年には当時豪腕の名をほしいままにしていた野茂英雄(当時近鉄)からプロ初本塁打を放ったものの、完璧に監督の指示を無視していたため、その直後に2軍降格を言い渡されている。土井監督や小川亨コーチから独自性を否定されたことに対し我流を貫き続け、「若いくせに結果ばかり求める」とされ1軍に定着することはできなかった。
2軍生活を余儀なくされていたイチローであったが、2年目の秋には土井監督が今季限りという噂があり、従う必要性はないと判断し河村健一郎2軍打撃コーチと二人三脚で振り子打法を鍛え上げ後日の飛躍にそなえた。後に土井はイチローが日本を代表する打者になると、あたかもイチローを育てたのは自分であるかのように話したが、当のイチローからはきっぱり「河村さんにわるい(無礼)です」と言われている。
1993年のオフにハワイのウィンターリーグに参加した。そこで現ニューヨークヤンキースのジェイソン・ジアンビとヒロ・スターズでのチームメイトだった。
1994年、監督に招聘された仰木彬はイチローの打撃センスを見抜くと、登録名を当初の鈴木から「イチロー」に変更させて1軍の2番打者に抜擢する。イチローは1軍打撃コーチの新井宏昌にも理解されレギュラーとして活躍。その後1番打者に定着し、日本新記録の69試合連続出塁、日本球界初となるシーズン200本安打の偉業を達成。最終的に210安打(日本記録)まで延ばし首位打者を獲得。またこの年から打撃の正式タイトルとなった最多安打の初代獲得者となった。
1995年、前半戦を三冠王で折り返す。最終的に本塁打数は小久保裕紀に抜かれたものの、終了時には首位打者、打点王、盗塁王、最多安打、最高出塁率を獲得し「五冠王」。勝負強さやパワーも証明した。また、当時のパシフィック・リーグ新記録となる18死球を記録(現在のパ・リーグ記録は2004年に城島健司が記録した22死球)。ちなみに本塁打王の小久保は28本塁打、イチローは25本塁打で、日本球界・メジャーリーグともに前例のない打撃タイトル独占にあと一歩であった。
1996年9月23日、日本ハムファイターズ戦(グリーンスタジアム神戸)では、延長10回裏にオリックスのリーグ連覇を決めるサヨナラ二塁打を放ち、前年のリーグ優勝時に果たせなかった「地元・神戸での胴上げ」を実現させた。さらに日本シリーズ第1戦では、延長10回に読売ジャイアンツ・河野博文投手からライトスタンドに決勝ホームランを放ち、チームは阪急時代の1977年以来の19年ぶりの日本一に輝き、イチローは優秀選手賞を受賞した。
1997年、216打席連続無三振の日本記録を樹立。彼の三振の少なさは高校時代から知られており、高校3年時の三振はわずか3つである。
2000年5月13日のロッテ戦(グリーンスタジアム神戸)、1回裏の打席で後藤利幸の投じたワンバウンドの悪球を打ちにいき、ライトに運んでヒットにした。
1994年から2000年まで7年連続首位打者獲得を達成。7度の首位打者は張本勲と並ぶ日本記録だが、7年連続首位打者は史上初。さらに1994年から1996年までは連続MVPであり、3年連続MVPはチームの大先輩山田久志とイチローのみしか達成していない。

メジャーリーグ
2001年、イチローはポスティング制度を利用してメジャーリーグ・シアトル・マリナーズに移籍する。メジャーリーグ移籍に関して、本人は2000年に移籍と決めていたが、恩師である故仰木彬監督に「もう1年だけ一緒にやろう」と引き留められ、断ることができずチームに残ったという。当初は、日本人野手がメジャーで通用するのか、また線の細いイメージ(筋肉のつき方が一般的な野球選手と異なるためそう見られる)のイチローに全シーズン出場できるスタミナがあるかなど疑問視する声が日米問わず多かった。しかし開幕戦からマルチヒットを放ち、その後もヒットを積み重ねる。この年、1930年のビル・テリー(ジャイアンツ)以来となるシーズン242安打(歴代9位)を放ち、メジャーリーグのルーキー最多安打記録を更新するとともに、アメリカンリーグの新人王・MVP・首位打者・盗塁王に輝く。首位打者と盗塁王を同時に獲得したのは1949年のジャッキー・ロビンソン以来、新人でアメリカンリーグの打撃部門を制したのは、アブナー・ダルリンプル(19世紀の記録)、1964年ミネソタ・ツインズのトニー・オリバ以来3人目、安打試合数の135試合はウェイド・ボッグスら四人と並ぶトップタイ、また打数の692はアメリカンリーグ新人記録であった。なお、新人王とMVPに同時に選出されたのはイチローの他には1975年のフレッド・リンのみであり、新人王と打撃タイトルの同時受賞はトニー・オリバー(首位打者)、ジャッキー・ロビンソン、ビンス・コールマン(盗塁王)、ウォルト・ドロポ(打点王)、マーク・マグワイア(本塁打王)以来6人目。当時、イチローの安打数が200を超えたあたりから、メディアでは「ルーキー最多安打記録」が話題になったため、リーグ機構が1947年に制定したルーキー資格を元に、過去の打撃記録を調べなおした。結果、当初1927年のロイド・ウェイナーの「223安打」と思われていたルーキー安打数記録が、1911年に"シューレス"ジョー・ジャクソンが記録した「233安打」に訂正される事態も起きている。なお、新人王・MVP・首位打者・盗塁王・シルバースラッガー賞・ゴールドグラブ賞を同時に手にしたのはメジャーリーグ史上、イチローのみである。このように記録的な活躍でチームのプレーオフ進出に貢献、日本の一流打者(野手)がメジャーリーグでも通用することを証明した。
野球の殿堂にあるイチローブース2003年5月には、メジャー通算500本安打を達成。
2004年には、84年間破られることのなかったジョージ・シスラーの257安打を5本上回る262安打を記録と同時に打率.372を記録し、メジャーでは3年ぶり2度目の首位打者にも輝いた。この記録は内外で高い評価を受け、アメリカでは多くの新聞でその偉業を称える記事が掲載され、USA TODAY紙にもバリー・ボンズ選手が700号ホームランを打った時以来の全面広告でメジャーリーグが祝福の意を表し、アメリカの野球の殿堂では特別ブースが用意された(右の写真参照)。日本では、2度目の国民栄誉賞の授与を打診(2度とも本人が辞退)され、アジアの国々や野球に関心の薄いイギリスでも異例の取り扱いで新聞等のメディアがその記録達成を伝えた。2004年、小学5年生の道徳副読本の題材に登場、連続試合出場の「継続」の大切さを伝えた。シーズン最多安打で影に隠れているが、7月にシーズン2度の月間50本安打を達成、ジョー・メドウィック以来68年ぶりの快挙を成し遂げる。8月に球団記録のアレックス・ロドリゲスの月間54本安打を更新し、68年ぶりにロイ・ウェザリーの月間56本安打のタイ記録に並んだが、月間67本安打のタイ・カッブには届かなかった。ちなみに正式な記録ではないが2004年7月18日〜8月17日の間にヒットを67本を打っている。通算4度の月間50本安打はピート・ローズに並び(メジャー記録はジョージ・シスラーの10度)、他に2ヶ月連続50本安打とシーズン3度の月間50本安打の記録を更新した。さらに9月にビル・テリーの連続4シーズン918本安打を更新した。
2005年4月22日、大リーグは84年ぶりにシーズン最多安打を更新したイチローに対して、Commissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)を贈り、シアトルのセーフコ・フィールドで受賞セレモニーを行い、イチローの偉業を称えた。(イチローの英語コメント訳)「このような賞を頂き大変名誉に思っています。シアトルのファンの前で、セーフコ・フィールドでジョージ・シスラーの記録を破ったことは、私の野球経歴の中でも最も偉大なものでした。まず最初にジョージ・シスラーに感謝したい。わたしがあの最高の瞬間を体験できたのも彼の素晴らしい記録があったからこそです。・・・」 コミッショナー特別表彰は大リーグの歴史の残る偉業を達成した選手に贈られるもので、過去にはトニー・グウィン、マーク・マグワイア、サミー・ソーサ、カル・リプケンJr、ロジャー・クレメンス、バリー・ボンズが受賞しておりイチローが7人目の受賞者である。
2005年には、日本人選手として初めてメジャーリーグ通算1,000安打を達成した。これは出場696試合目での達成であり、1933年のチャック・クライン(683試合)、1932年のロイド・ウェイナー(686試合)に次いで史上3番目のスピード記録となった(日本では史上最速の757試合で1,000安打を達成している)。6年連続100得点30盗塁はジョー・モーガンに次いで2人目。また、5年連続200本安打という記録も達成した。デビューからなら史上初だが、「デビューから」という注釈が付かなければ、1900年以降の近代野球では3人目。連続記録では史上初だが、5度の200安打100得点30盗塁は球聖タイ・カッブ以来89年ぶりの快挙を成し遂げた。また、チャック・クラインの連続5シーズン通算1,118安打を抜いたが、ジョージ・シスラーの5シーズン通算1137安打はあと一歩のところで抜けなかった(ジョージ・シスラーは目の病気で1シーズン丸々プレーしてないため連続記録ではない)。
2006年5月7日にメジャー通算200盗塁達成。その翌日には日米通算400盗塁も達成。さらに20試合連続安打を日米通算だが8回達成した。最高記録はピート・ローズの7回(19世紀の記録はウイリー・キーラーの8回)。6月には日米通算2500本安打を達成。7月26日には戦後最多となるウェイド・ボッグスの連続6シーズン通算1274本安打を抜いた。7月28日には日本時代の1278本安打と超えた。8月16日にはロジャース・ホーンスビーが持つ連続6シーズン最多安打1296本を超えた。8月29日にはメジャー通算400マルチヒットを928試合目で達成。これは6年目ではメジャー最速。またこの日20回目の先頭弾を打った。9月5日にはウイリー・キーラーが持つ連続6シーズン最多安打1313本(19世紀の記録)を超えた。9月7日には日米通算800マルチ安打も達成。9月9日にはジョージ・シスラーが持つ6シーズン最多安打1317本安打を超えた。9月16日、カンザスシティ・ロイヤルズ戦において200安打を達成し、5年連続を6年連続に伸ばした。メジャーリーグ史上3人目となる。なおイチローはこの試合において三盗を成功させたことで33連続盗塁成功となり、ア・リーグ新記録も達成した。また満33歳になるこのシーズンに自己3番目の記録となる45盗塁を記録。しかしビンス・コールマンの1シーズンのメジャー記録である44連続盗塁成功には及ばなかった。メジャー通算100敬遠と日米通算200敬遠にも到達した。
2007年5月3日(日本時間4日)、41連続盗塁成功を達成して、シーズンを跨いでのアメリカンリーグ連続盗塁成功記録を更新(従来の記録は、ティム・レインズの40)。5月16日(日本時間17日)にはア・リーグ記録を45に伸ばした。5月18日(日本時間)対エンゼルス戦の終盤、3点のビハインドで負けているところでヒットエンドランのサインが出るものの、2番打者のホセ・ビドロがサインを見落としてヒットエンドランに失敗。これが盗塁死扱いになり、イチローのア・リーグ連続盗塁成功記録は「45」でストップした。ナ・リーグのビンス・コールマン(カージナルス)の連続盗塁成功50の大リーグ記録の更新はできなかった。

[編集] オールスターゲーム
2001年のファン投票では337万票を獲得し、日本からの68万票を差し引いても両リーグ通じて1位となる。打者としては、日本人初となる。
2002年、2年連続オールスターファン投票両リーグ最多得票になった。
2003年、3年連続オールスターファン投票両リーグ最多得票になった。3年連続は、ケン・グリフィーJr以来2人目の快挙。
2004年、4年連続出場
2005年、5年連続出場
2006年、6年連続出場
2007年、ファン投票で外野手部門で3位となり7年連続で出場する事になった。試合ではオールスターゲーム史上初のランニングホームランを記録し、その一打が逆転及び決勝点となった。結果、3打数3安打2打点1得点の活躍のため、日本人として、またアジア人として初のMVPに選出された。また、日本人初のホームランを打った事になる。

世界大会
オリンピックなどへの参加を断り続けていて世界大会に興味がないようなイメージをもたれていたため、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)への参加に驚いたファンも多い。これは「オリンピックはあくまでもアマチュアの大会で自分はプロ」という考えによる。また常々チームプレーよりも個人プレーの向上が最終的な結果に結びつくと発言していたが、WBC日本代表ではチームプレーを優先するとも語り、チームリーダーとして率先して行動、その明るく気さくな姿は誤解されていた従来のイメージを覆し話題になった。 
イチローがWBCへの抱負として語った「今度のWBCで、戦った相手が“向こう30年は日本に手は出せないな”という感じで勝ちたいと思う」という特定の国を指しているわけではなかった発言が、韓国を対象とした発言としてとりあげられてしまい[3]、過敏に反応した韓国メディアの一部からは倭猿と形容されたり、デッドボールを受ける姿を悪意の感じられる形で使用されるなど、バッシングを受ける事態にも陥った。また日本人からの批判も少数ながら見られた(小説家の星野智幸による批判など)。もっともイチロー本人は「ブーイングの声は大きいほうが燃える」と気にする風でもなかった。
WBCでは韓国チームに2連敗する。2敗目の時、イチローは試合後に「僕の野球人生で最も屈辱的な日だった」とコメントした。この発言を聞いた大橋巨泉は『週刊現代』連載「内遊外歓」第582回[4]で人種差別発言と批判し、さらに第584回では「『屈辱なら、自分の球団(マリナーズ)が2年連続最下位の方が屈辱では?』くらいの事を何故突っこまなかったか」と記者をも批判した[5]。それに対して、井沢元彦は『SAPIO』5月10日号「大橋巨泉様 私を「ウソつき」、イチロー発言を「人種差別」と決め付けたのはあまりに軽率ですよ。卑劣なのは存在しない差別発言をでっち上げた韓国のマスコミの方である」と反論。(また、イチローの「屈辱的」発言を「あんな卑劣な手を使いマナーも最低のチームに負けるとは」という意味だと主張したが、もちろんこれは井沢の忖度であり、イチローが韓国を最低と公言したわけではない。)3度目の正直となる準決勝で日本は韓国を下し、イチロー自身もダメ押しのタイムリーを放った。試合後には「今日負けると日本のプロ野球史に汚点を残すところだった」「勝つべきチームが勝ててよかった」と発言した。

[編集] 人物・エピソード

ユニフォームに記載された名前まだ2軍だった時に打撃コーチから将来の目標についてレポートを書くように言われ、イチローは「12年間で2000本安打」という謎の発言を書いたが、日米併せ達成してしまった。[要出典]
普段はメディアの取材に積極的に応えることはないが、それはファンを軽視してのことではない。糸井重里との対談では「僕はゲームの後にその日の試合のことについて語ることを、あまりしていません。それは真剣に見てくれている人々の事を考えると、いい加減なことを言えないからです。適当にあしらうことはできないんです」と語っている。また「オフになってからは『イチローは何を考えているのだろう?』という質問に答えることにしています」との言葉通り、オフの特別番組やロングインタビュー等には積極的に応えている。
また同対談で「一時的な注目ではなく、何年も僕に興味を持ってくれる人達とは、もう一生の付き合いだと思っているんです」とも語っている。
前述の7年連続首位打者から分かるように、オリックス在籍時を含めて打率3割を切ったのは登録名を「イチロー」に変更する前、つまり無名であった1992年と1993年の2年だけである。
日本での登録名はデビュー3年目から"イチロー"であったが、メジャーでの登録名はフルネームで"Ichiro Suzuki"となっている。ただし、ユニフォームに記載されているのは通常の姓ではなく、名前(ファーストネーム)での記載となっている(右の写真を参照)。
イチローは少年時代、毎日父とバッティングセンターで練習していた。バッティングセンターでは打席の一番前に立ち、140キロのボールを打ち返すという練習をしていた。プロになり、シーズンオフに高校の友人数人と会った時、少年時代に練習したバッティングセンターに立ち寄る機会があった。友人達はイチローに「少年時代のように打席の一番前に立ち、140キロの球を打ってみてくれ」と頼むと、イチローは快く承諾し、打席の一番前に立ったが、プロではめったに空振りをしないイチローが空振りを連発し、「よく昔の俺はこんなの打てたなー」とつぶやいた。
「バットを振らずに打席が終わる。そんなにつまらない事はない」と語るなど独自の美学を持ち、四球を選ぶより強引にでも安打を打とうとするために四球が少ないが、同時に三振は極めて少ない。このため2005年は年間最多安打記録を更新した翌年だけに、打率4割を期待する声が強かったが、New York Times紙ではこのイチローの姿勢から4割の大台達成は無理で、むしろジョー・ディマジオの持つ56試合連続安打記録を塗り替える方が現実的との見解を示した。また、四球が少ない分出塁率が1番打者としては低いのではと指摘されることもあるが、2001年・2002年・2004年とMLB全体の規定打席到達1番打者の中で1位になっており(2006年は1位と4厘差の4位)、特に2004年はMLB全体で9位、ア・リーグでは1位と5厘差の2位で、逆に1番打者の中では出塁率が高いほうである。
首位打者を獲得した2001年と2004年は得点圏打率もアメリカンリーグトップ(100打席以上)。2002年は敬遠四球が激増し、打率を3分近く下げながらも出塁率を上昇させている。
左打者で、スイングから走り出すまでが非常に早く、さらに俊足でもあるため、他の選手ならば安打にできないような打球でも安打になることが多い。2004年の内野安打数は59本。メジャー両リーグで1位である。
広角に打ち分けるバッティングを得意とする。また、内野安打になりやすい叩きつけるバッティングも特徴的である。
長打率が低く、本塁打が少ないために打者としては非力とされ、本塁打数は歴代シルバースラッガー賞受賞者の中でも最も少ない部類に入る。しかしマリナーズの前監督(ボブ・メルビン)が「毎回イチローの(試合前の)打撃練習を見てみろよ。山ほど(ホームランを)打ってるよ[6]」と証言しているなど長打力がないわけではなく、試合で長打を狙わずにヒットを打つことに専念している結果と言われている。本塁打に関しては日本時代に年間25本を打った実績があり、日本球界では長打の数は多い。本人もメジャーリーグ移籍後に「全打席ホームラン狙いなら40本は無理だが、30本はいける」と発言している。

ハイキックを用いたフォーム(2005年)2000年後半からそれまでのいわゆる振り子打法とは違う足をあげないフォームへ変えている。イチローのバッティングフォームはデビュー以来シーズン中であっても常に変化し続けており、2005年からは足の上げ方は異なるが、再びハイキックを用いた打法へ変化している(右の写真を参照)。現在は野茂からプロ初HRを打った頃の変則一本足打法になっている。
俊足で守備範囲が広く、2006年に選手が選ぶ強肩な外野選手で48%を占めるほどの強肩とその正確なスローイングのため、送球は"レーザービーム"と称されるなど(マリナーズ専属アナウンサー、リック・リズの実況より:この表現は日本でも有名になり、スポーツニュースでは定着しつつある)、他球団からは最もタッチアップで進塁しにくい外野手に挙げられている。2007年の球団広告では、この送球をネタにしたものが作られてアメリカ北西部のテレビ(特にFOX Sports Net: FSN)で放映されている[7]。また、これに併せて高い運動能力を活かしたファインプレーもあり、本来なら安打性の打球もアウトになったり犠牲フライが外野フライになったりするため、ファンの間ではイチローの守る右翼はその背番号と超自然現象がよく起こるとされるネバダ州の米軍秘密地区とをかけてエリア51と呼ばれている。この守備はメジャーでも高い評価を受け、ゴールドグラブ賞を2001-2006年の6年連続で受賞している。
オリックス時代の1996年のオールスター戦の9回に、イチローは高校時代投手ということから仰木監督が松井秀喜(当時読売ジャイアンツ)のところでピッチャーとして起用した。そこでセ・リーグ監督の野村克也監督は松井に「どうだ?」と聞いたところ、松井が「カンベンして下さい」と答えたため[8]代打高津臣吾(当時ヤクルトスワローズ)を送り、結果は高津をショートゴロに打ち取り、イチローが勝利した。野村はオールスターの舞台で本来ピッチャーでないイチローを登板させることは、対戦する打者にとって最大の侮辱ととらえた。後日野村はイチローの投手起用について「ふざけている」というコメントをしている。(しかしその後、野村は新庄剛志を投手にコンバートさせている。)この事についてイチローは「9回2死、バッターは松井だった。すごくわくわくしていたのに、投手が代打に送られた。はらわたが煮えくり返って、完全に冷めてしまった」と振り返っている。イチローはピッチャーとしてメジャーのマウンドに立つのが夢だと何度か語っており、球速もかつてテレビ局の番組で、マウンドでの投球を計測したところ時速146kmでていた。あまり知られていないが、1995年のパ・リーグ東西対抗戦でイチローがマウンドに上がったことがある。この時、当時日本ハムファイターズの広瀬哲朗をピッチャーゴロに打ち取った。広瀬によれば、本来は当時西武ライオンズの清原和博が打席に入るところだったが、清原が広瀬に「俺が打席に入って三振でもしたらどうするんだ。広瀬さん、行ってくれ」と言ったそうである。

打席でのポーズ1999年6月13日のダイエー戦では、試合終盤に内野手を使い果たしたため、現時点で日米を通じて唯一内野(三塁)を守っている。なお、この試合は福岡ドームで行われたが、オリックスの主催試合であった。
'96年頃から、打席に入るとバットを縦に構える独特のポーズを必ず行うようになった(右の写真参照)。これは幼い頃から熱烈なファンだった中日ドラゴンズの田尾安志選手(現解説者)の影響ともいわれる。また、そのポーズで眼の焦点をスコアボードに合わせた後、バットへ焦点を変えることによって、ボールに対する動体視力を一時的に上げる効果があるとも言われている(NANDA!?より)。
偏食家として有名である。独身時代は全く野菜を口にせず、毎日馴染みの焼肉屋で肉ばかり食べていたと言われる。結婚後は弓子夫人が調理方法を工夫したため、野菜を食べることができるようになった(近年では本人の健康管理への意識の高まりもあると思われる)。好物はたくあんであり、少年時代には食べすぎて体が黄色くなってしまい、病院に運ばれたこともあるという。
若手時代は今と違い、むしろマスコミに対して好意的でバラエティ番組にもよく出演し、明るく喋っていたが、永谷脩がきちんとした取材によらない、いい加減な文章を書いて発表したことによって急変し、以降信頼できる記者やきちんと勉強している記者以外には冷たく当たるようになったと言われている。イチローのその記者泣かせな態度には少なからず批判があるものの、際立つ実績のために表立った批判はない。だが、夕刊フジの江尻良文だけは彼のこのスタイルを落合の影響と批判している(この記者は大の落合嫌いで有名)。
目を非常に大切にしているため、インターネットはおろかパソコンの画面自体を見ない。自身のウェブサイトもブログも持たない。メールも弓子夫人任せである[9]。しかしながら、NTT西日本のコマーシャルでは、パソコンを通じて子供たちとの会話をしている。
メジャーリーグへ移籍するまで住民票を移さず、生まれ育った豊山町に納税していた。
親族が日産自動車の関連会社に勤務している関係で、1995年に「イチロ・ニッサン」キャンペーンのコマーシャルに出演した。プライベートでもマーチ、シーマなどの日産車を愛用していることでも有名。2006年には久々に日産のCMに出演した(スカイライン)。また日産のワークスドライバーとして有名な星野一義との交流もあり、前記のマーチも彼が社長を務めるホシノインパルで作られたものである。

クラシック・スタイル2006年のWBC以来、ユニフォームのすそを上げ、ストッキングを見せる「クラシック・スタイル」にしている。これにより足にかかっていたストレスが減った、とイチロー本人は述べている。また、このスタイルは2005年から考えていたが機会がなく、WBCが良いきっかけとなり、このスタイルにするようにした、と発言している。
愛犬の名は一弓(いっきゅう)と言う。犬種は柴犬。イチローの一と夫人の弓をあわせたらしい。
洗車が好きであり、かつては盆栽や囲碁が趣味と答えていた。
元チームメイトのジョン・オルルッドはイチローの打撃について5通りの打ち方をすると評した。1つ目はランニング・ワン・ハンダー(半分走りながら片手で打つ)、2つ目はザ・リーナー(ボールに寄りかかりながら打つ)、3つ目はフィストカフ・スイング(なぐりつけるように流し打つ)、4つ目はチップ・スイング(ゴルフのチップショットのように打つ)、5つ目はパワースイング(力で引っ張るバッティング)があるという。状況に応じて打ち方を使い分けており、かつて本人が"ホームランは狙って打つもの"と語っていた事を裏付けている。
日本での通算打率は.353を誇っているが4000打数以上が条件である通算打率へのランクインには381打数足りない。しかし将来日本に復帰した場合、381打数で3安打すれば通算打率は.3203(4000打数1281安打)となり、現在通算打率1位のレロン・リー(.3200)を上回る計算になる。
2007年3月12日、髪を丸刈りにした。同僚のラウル・イバニェス外野手から、「ブラッド・ピットみたいだ」と評される。
THE BLUE HEARTSのファンであり、2004年に安打記録を達成することになる試合に向かう車中では「未来は僕らの手の中」を聞いていた。2007年現在の本拠地セーフコフィールドでの出囃子は矢沢永吉の止まらないHa〜Haのイントロ。
Mr.Childrenのファンでもある。テレビや雑誌等のインタビューにおいて、練習中や浴室でよく聴いていると発言。尊敬する人物として、桜井和寿をその一人として挙げている。
シンガーソングライターである椎名林檎は、自らが作詞した『スーパースター』という楽曲について、イチローをイメージして制作したと発言している。
体脂肪率はわずか6%前後である。
2004年にMLBのシーズン最多安打を達成した後、正力松太郎賞特別賞が授与された。その際、「打撃の神様」川上哲治に「精神的にも技術的にも、野球の神様といえば彼じゃないかと思う」と最大級の賛辞を送られている。
メジャー行きの話が出る前の国内での落合博満との対談番組で「もしメジャーにいけるなら」という話題になり、「メジャーからいつかまた帰って来てまた日本でやれるのであれば是非挑戦したい」と答えている
2007年MLBオールスターゲームの3打席目でオールスターゲーム初となる、ランニングホームランを決めた。日本人としてオールスターゲームでホームランは初めてとなった。試合はイチローが属するア・リーグが勝利し、日本人としてまたアジア人として初となるMVPに選ばれた。MVPに選ばれた際に「フェンス越えのホームランじゃなくてショックでした」と語り、また試合後にレストランの予約をしていたとのことで、試合後すぐに帰ろうとしたことも語った。

略歴
1990年 全国高等学校野球選手権大会に左翼手として出場。一回戦敗退。(対天理戦)
1991年 選抜高等学校野球大会に投手として出場。一回戦敗退。(対松商学園戦)
1992年 ドラフト4位でオリックスブルーウェーブに入団。
1992年 ジュニアオールスターゲームで最優秀選手賞(100万円)を獲得。
1994年 登録名を「イチロー」に変更。日本プロ野球史上初のシーズン200本安打を達成。最終的に210安打を記録。
1994年 - 2000年 パ・リーグの首位打者を獲得。7年連続は日本記録。
2000年 ポスティングシステムを利用しメジャーリーグのシアトル・マリナーズへ移籍。
2001年 ア・リーグ首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞・新人王、MVP獲得(新人王以外全て日本人初)。シアトル・マリナーズのシーズン116勝の新記録での地区優勝に貢献する。チーム初のCommissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)を授与する。日本文学振興会から菊池寛賞を受賞。
2004年5月21日(現地時間) 日米通算2,000本安打達成。
2004年8月26日(現地時間) メジャー史上初の入団初年度からの4年連続200本安打達成。
2004年9月2日(現地時間) 日本人野手史上初となるア・リーグ月間MVP野手部門に選出。
2004年10月1日(現地時間) ジョージ・シスラーのメジャーリーグ年間最多安打記録(257安打)を84年ぶりに更新する258安打を達成。
2004年メジャー史上最高記録の年間262安打で2004年のシーズン終了。打率.372で3年ぶり2度目のア・リーグ首位打者を獲得。他には2度目のリーグ最多敬遠、Commissioner's Historic Achievement Award(コミッショナー特別表彰)を受ける。現役選手という理由で国民栄誉賞は辞退(2度目の打診)。
2005年6月14日(現地時間) メジャー史上3番目の速さで1,000本安打達成。
2005年11月 5年連続ゴールドグラブ賞獲得。
2006年9月17日 史上3人目の6年連続200本安打達成。
2006年 3度目の最多安打を記録。
2006年11月3日 6年連続ゴールドグラブ賞獲得。
2007年7月10日(現地時間) MLBオールスターゲームMVP(オールスター史上初のランニングホームランを含む3安打2打点。MLBオールスターの日本人初ホームラン、アジア人初MVP受賞)

CM
日産自動車「ステージア」「スカイライン」
「幕開け・イチロー篇」(2006年11月21日〜)「スカイライン」
「雨篇」(イチロー篇)(2007年1月1日〜)「スカイライン」
「001 Skyline talk篇」(2007年4月12日〜)「スカイライン」
「002 Skyline talk篇」(2007年4月12日〜)「スカイライン」
「003 Skyline talk篇」(2007年4月12日〜)「スカイライン」
「004 Skyline talk篇」(2007年4月24日〜)「スカイライン」
「SKYLINE「50周年」篇」(2007年4月24日〜)「スカイライン」
「005 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
「006 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
「007 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
「008 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
「009 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
「010 Skyline talk篇」(2007年5月5日〜)「スカイライン」
アサヒ飲料「三ツ矢サイダー」
ペプシコーラ
「FEVER篇/BOOM篇」(2002年2月15日〜)
「イチローシズル篇」(2002年3月21日〜)
「イチローDIET篇」(2002年4月1日〜)
サトウ製薬「ユンケル」
NTT西日本
日興コーディアル証券
新日本石油 「エネオス」
NTTグループ
ハウス食品「とんがりコーン」「バーモントカレー」
アサヒビール(WBC期間限定)
住友林業
ミズノ
WBC - 2006年2月5日に放送されたスーパーボウル中継の中でWBCのCMが放映され、アメリカ代表のロジャー・クレメンス,デレク・ジーター、ドミニカ代表のアルバート・プホルス、イタリア代表のマイク・ピアッツァらと共に、日本代表からイチローが出演した。

ドラマ出演
2006年の正月番組のミステリードラマ古畑任三郎(3日間連続放送のシリーズ完結編第2話)に主人公・古畑と対決する犯人役「シアトル・マリナーズのイチロー」として出演した(ギャラは古畑任三郎DVD-BOX)。これまでの古畑作品で、犯人役を本人が演じたのはSMAP以外には例が無い。本人も、古畑任三郎シリーズの大ファンであると公言しており、プロデューサーと思惑が一致したため、出演に至ったとされている。実は本来は、脚本家三谷幸喜の脚本では、イチローの演じる役は、『ハチロー』だったが、イチロー本人が「自分を演じたい」と熱望したため、急遽『イチロー』となった。その演技に関しても撮影をするに当たり、台詞を完璧に覚え、NGはほとんど無かったと言われており、主演の田村正和は「役者の鑑」と評した。視聴率は27%で12年続いたシリーズの中では7番目に高いものとなった。
イチローがチームのオフィシャル雑誌Marinersに語ったところによると、2004年に最多安打の記録を達成したオフシーズンに初めて野球以外で何かしてもいい気になったという。2005年の春季キャンプを迎える直前の2月に神戸ホテルで初めて脚本に目を通し、本人の話では冗談まじりにみすぼらしい演技で関係者に引き取ってもらい、面白い話が来た程度で終わらせようと考えたそうであるが、いざゴーサインが出た時は番組のレベルを考えてかなり緊張したと語っている。シーズン終了後の10月に東京ドームの駐車場で撮影が開始。今までやったことのない世界で、その世界の一流の出演者と共演し、本当に自分が番組のレベルにあった演技ができるのかどうか考えてとにかく怖かったと語っている。また、後日インタビューで、守備に就いている時に台詞の練習をしていたことや、2005年シーズンの成績が他の年に比べて下がったことを引き合いに出して、「台詞の練習をしていたせい」だと冗談交じりに語っている。
イチローは以前にも「走れ!イチロー」(2001年・監督大森一樹)で本人役として映画出演を果たしているが台詞は無かったため、台詞をしゃべるのは本作が初めてだった。

出演番組
BSデジタルの対談番組
2003年糸井重里
2004年ビートたけし(北野武)
2005年久米宏
2006年矢沢永吉
2007年黒木瞳
※のちに書籍化されてるが、久米宏だけ書籍化されていない。

僕らの音楽-OUR MUSIC-(フジテレビ系。2007年2月23日放送回。椎名林檎との対談。)
ICHIRO MONDOW(読売テレビ) 2006年4月1日〜2007年3月末
ICHIRO-VERSUS(同。2007年4月7日より。上述番組の続編)

書籍
「イチロー・オン・イチロー Interview Special Edition」
「イチロー、聖地へ」
「キャッチボール ICHIRO meets you」
「イチロー思考 孤高を貫き、成功をつかむ77の工夫」
「イチローイズム 僕が考えたこと、感じたこと、信じること」
「イチロー262のメッセージ」
「イチロー 勝利の方程式〜常に進化し続ける男の考え方〜」
  ウイキペディアより抜粋
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